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弓矢町武具飾り 概要

江戸時代、弓矢町には八坂神社に奉仕する人々が住んでおり、祇園祭 神幸祭のとき6人の法師武者と約30人の甲胃姿の武者が神輿行列に供奉していた。
明治5年(1872)に清々講社が成立すると、清々講社第二号弓矢組として神幸祭·還幸祭に供奉するようになる。しかし行列への参加は財政的な負担や甲胃の損傷が大きく、還幸祭は昭和41年(1966)、神幸祭は昭和49年を最後に行われておらず、昭和50年からは祇園祭神幸祭の日に合わせて、弓矢町武具飾りとして町内の各家に甲胃が飾られている。

弓矢町の祇園祭

祇園祭神幸祭に、東山区弓矢町(ゆみや ちょう)の松原通周辺では、もう一つの祇園祭が催される。
神幸祭の前日と当日の2日間、町会所の「弓箭閣(きゅうせんかく)」、通り沿いの各町家には鎧甲冑、武具が展示される。
歴史 中世(鎌倉時代-室町時代)、祇園社(現在の八坂神社)に属した「犬神人(いぬじにん/つるめそ)」が存在した。
近世(安土・桃山時代-江戸時代)、弓矢町に犬神人が住み、弓矢作りを生業にする。
江戸時代、祇園祭に際して、弓矢町の犬神人は、武具甲冑姿で供奉した。1637年、この地は「坂弓矢町」と記されている。(『半日閑話』)
現代、1974年、祇園祭神幸祭を最後として弓矢町の供奉は中断する。
犬神人・弓矢町 清水坂の西、松原通周辺、現在の弓矢町は、旧物吉(ものもし)村の一部を含んでいる。
この地には、かつて複数の町名があった。江戸時代には「前瀬崎(ぜぜがさき)」(『山州名跡志』、1711年)、また、古くより清水坂入口に当っていたため、「坂(さか)」「坂面(さかおもて)」といわれた。このため住人は「坂ノ者」とも呼ばれている。
中世、祇園社(八坂神社)に属した下層民の犬神人(いぬじにん/つるめそ)は、神社領の清掃、警固、雑役などを担っている。
近世、弓矢町に犬神人が移り住む。彼らが神事・魔除用の弓矢、弦(つる)、和沓、僧の帽子などの鹿革製品も製作し行商も行っている。「弦召(つるめそ)」とも呼ばれた。犬神人は年始の縁起物に弓弦を鳴らし、その音で魔を祓った。その際に、「つる召そ」と掛け声を上げたことに由来するともいう。作った弓弦を売り歩いた際に、「弦召せ」と売り声を上げためともいう。
江戸時代、1637年には「坂弓矢町」(『半日閑話』)とあり、これ以前に、すでに犬神人による弓矢作りが行われていたとみられる。彼らの弓矢作りにより、弓矢町の町名由来になったという。
弓を作るものは「弓打」、矢を作るものは「矢師」、「矢矯(やはぎ)」、「弦指」とも呼ばれた。弓は外竹と内竹の間に弓芯を挟み、膠(にかわ)で接着した。矢は竹末に鳥の羽3片を付け、先に鉄製の鏃(やじり)を付けた。(『雍州府志』)
なお、弓矢町にはかつて愛宕念仏寺があった。正月2日の夜に寺の客殿で、弓矢町の犬神人による「天狗酒盛(てんぐのさかもり)」という行事が催されていた。あまりに騒がしいことから天狗と名付けられる。「転供(てんぐ)の酒盛」とも呼ばれた。悪鬼を祓うために、首班(しゅはん、首席)は単衣の倍木(へぎ)で舞い、宴後に各堂を牛王杖(ごおうじょう)で門扉、床、壁などを叩いた。法螺貝が吹かれ、太鼓が打ち鳴らされた。寺僧は牛王札を貼った。参拝者には火伏の牛王札が授けられていた。
近代、1894年に寺は、嵯峨鳥居本に移転している。
祇園祭 中世(鎌倉時代-室町時代)、犬神人は祇園祭の神幸祭、還幸祭では、神輿の先頭に立った。神輿御前(みさき)の清めを行っている。室町時代、16世紀前半に、彼らは白い頭巾をかぶり、柿色の衣、手には金棒を携えて加わる。6人おり「棒の者」といわれた。実際には、神輿巡行の2時間ほど前に清めを行っている。(『洛中洛外図屏風』)。これは、江戸時代初期の正月上旬に行われていた懸想文(けそうぶみ)の井手達に重なる。(『雍州府志』)
江戸時代、棒の者の後ろには「武者揃」という鎧帷子の一行が付いた。
近代以降も、祇園祭では「大将」を中心とし、具足、甲冑姿の武者30人は、中御座神輿に供奉している。神輿が渡御する道々の清掃と、弓矢を携えて神事の警固も行った。
文化財 こ祇園祭神幸祭に際して、町内の10カ所で展示される鎧甲冑は、江戸時代のものという。近代以降の祭礼で実際に使用されていた。
それぞれに銘がある。「義印」、「壽印」、「天印」、「福印」、「大将印」、「御使者弐領」、「信印」、「智印」、「愛宕印」、「禮印」、「花印」、「松印」、「仁印」など14領ほどが展示される。
町会所の「弓箭閣」には、鎧甲冑、武具とともに、祇園祭の関連資料、町内の史資料などが保管され、当日は展示公開される。
物吉村
(ものよしむら)
現在の弓矢町、宮川筋五丁目には、かつて「物吉村」があった。「かったい村」とも呼ばれた。江戸時代、1668年頃に開設されている。悲田院に属し、ハンセン病患者を収容する施設だった。村を管理するために、浄土宗の清円寺(せいえんじ、清圓寺)が置かれている。洛陽阿弥陀廻りの第32番札所だった。境内には鎮守社の清明社が祀られ、鴨川氾濫を祈願した。
西南に入口が開き、周囲は黒い板塀で囲ってあった。正月、五節句には、運営費調達のために、市中、山城国一円で勧進が行われている。物吉村の者は2人1組になり、頭に黒い頭巾を被り目出しして、「ものよーし」と叫んだ。町人は金銭を用意し寄付した。用意してない家では、玄関先にあるあらゆる物を、背に背負った籠に長い竹箸を使って摘まみ入れていたという。
物吉村は近代、1871年に廃止されている。
(注記) *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都市の地名』『京都まちかど遺産めぐり』『講座・人権ゆかりの地をたずねて 2004年度講演録』『雍州府志』『京都大事典』『昭和京都名所図会 2 洛東 下』

「弓矢町武具飾り」の由来について

1 弓矢町には、先代から 受け継いできた町有の「弓箭閣」という町会所があり、「土蔵」が併設されています。その土蔵の中に 先代の方々が祭 り等で使用した種々の品物(鎧兜、弓矢、太刀(竹光)、織、陣幕等)や古文書類が多く保存されております。
ちなみに江戸時代、弓矢町には八坂神社に奉仕する人々が住んでいて、祇園祭に法師姿や甲胃姿の武者が、神奥行列に参加していた経緯があります。

2 明治になり、弓矢町では鎧兜等を個人所有する町民が多く、その武具を身に着けて祇園祭に武者行列を実現しようと「行列式目」(行列に参列するための町内会の取決め)を制定しました。明治5年に鎧兜姿の町民30人が参加して、第一回目の武者行列を始め、その後も、毎年 行列を継 続していったことなど、多くの記録が土蔵内の古文書に残されています。

3 そのように、明治から昭和の長い年月にわたって甲胃姿の武者行列を重ねていくうち、鎧兜の損傷も大きく、そのため 30領以上あった鎧兜が14領に激減、修理費も増大するに及んで、昭和49年を最後に祇園祭の武者行列は、中止とせざるを得なくなったのです。 ※ 行列の発足当時の鎧兜は、全て町民個人の所有物で、大正に入って「武具の保管場所が欲しい」との要望により、町内会は募金を資金に、大正14年 土地を購入、集会所「弓箭閣」と「土蔵」を建立、幾兜類は 全て町内会に寄付されて 現在に至る。
※ 武者行列中止後、弓矢町は神姿で紙園祭神幸祭の神輿行列に参加、現在に至る。
※ 弓矢町が所有している武具(鍵兜等)類の出処は、現在においても、不明。

4 行列が中止となった翌年の昭和50年から、現存の14領の鎧兜を紙園祭神幸祭に合わせて、毎年2日間(7月16日、17日)、町会所の「弓箭 閣」と町内の当番の各家で、虫千しを兼ね 飾っているのを「武具飾り」といっております。

京都市東山区 六原弓矢町

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